(続)大陸打通 ―となりのせきのだつおくん―


前出、西沢曹長は始め仙台第2師団、高田第30連隊に入営している。
高田第30連隊は沖縄戦時、第28師団として宮古島に駐屯しており、飢餓により戦病死394人を出す。宮古諸島民の戦没者は、宮古八重山の推定戦没者8590人から八重山約3600*1を引いた約5000ということになるが、総務省によると平和の礎に記されているのは3311人で他不明となっている*2。島民約6万のところ約3万の軍が駐留しているのだから、食糧問題を始め様々な問題が出た。*3

それはさて置き、一般に東北の師団は精強と云われており、兵もそれを良く誇っている。思想の教授*4はよく、中国戦線帰還兵が
「俺は8月15日のその日も前進していた!」
と語り、国民党軍に負けたという自覚が全く無い様子を話す。前出、西沢曹長も独歩として反転部隊の退路確保をした際の状況を次のように語る。

情報では中国軍は二十個師団を越えており、更に貴陽辺りから続々と増援を送って来ていた。其れに比べ嘗ては威容を誇って来た第十一軍は二ヶ師団にも満たなかった。装備に至っては中国軍と比較にならなかったが、その中に在って想像以上の苦闘に打ち勝って困難を乗り越えたのは、第五十八師団と混成二ヶ旅団の出身が九州出身師団と我々東北第二師団出身部隊で、過去に中国軍に敗れた事が無い精鋭師団としての自信であったのかも知れない。

ただし、米式装備の脅威と航空機の脅威は十分認識しており、反転戦の前、桂林に着く頃には中国軍の増加と兵器性能の向上が目に見えていたとこぼす。

進めば退き、退けば出てくる、限り無き中国の底力を感じていた。一線の将兵は、只命令に依り惰性を繰り返しているに過ぎないのではないか、今となっては国民が先に手を上げてくれれば、面子も立つのだが、此のままでは軍人は死ぬまで戦うしかないのかも知れない。

友人の祖父も負けたと思っていないようであり、彼も無論「チャンコロ」と言って憚らない。また、もう片方の親がシベリア抑留体験者だったことから、ロシア人は当然「露助」扱いである。そんな彼には、よく軟弱!柔弱!といわれたものだった(笑)そりゃぁ、アンタの祖父や、ぶっ倒れた学生の背嚢背負ってレンジャー課程を修了するような先輩と比べたらそうでしょうよ、と返していたが。
九州は博多の友人もその気はあった。まぁ、零戦を屋上に載せようとした程の高校出身だったからかも知れないが…
同校で文Ⅲに行った知人が、ロッドマン宜しく頭にハーケンクロイツを刈り込む程のネオナチだった事を知った時には、恥ずかしながら地元では最右派だった自分も、世の中広いな、と思ったものだった。小倉出身の後輩はこれを聞き、あそこならやりかねん!と恐怖していた(笑)
*5

*1:藤原彰, 『沖縄戦―国土が戦場になったとき』, 青木書店, 1987年

*2:http://www.sensai.soumu.go.jp/state/html/47214---miyakojimashi.htm

*3:前掲*1 そのほか住民は、牛や豚などの家畜を軍にとられ、米もほとんど軍に供出させられた。小浜島では田 一反(10アール)から五俵とれるがそのうちの四俵を軍にとられイモなどをつくろうとしても、一日中 軍の作業に使われているため農作業もままならず、自分たちの食物を確保することもきぴしい状況に追 いこまれた。 日本兵は、家畜や畑の作物を盗んだり、建物に使ってある木の坂などを勝手にはがして持っていったり、略奪をくりかえした。
 宮古島では将校たちが自分の愛人にするために島の有力者に女学校の生徒などを出すよう要求し、いく人もの女姓がそうなった。なかには軍人の子どもを生み、戦後一人でその子を育てた女性もいた(川名紀美『女も戦争を担った』)。住民が不満をぷつけると日本兵は「住民を守るために我々軍隊は来ているのだ、ありがたく思え」と開きなおり、まるで占領者であるかのようにふるまった。

*4:左翼学生をよく小馬鹿にしていた。

*5:http://www.best-basketball-tips.com/allen-iverson-hairstyles.html