桑江良逢 『幾山河』 原書房 Ⅲ 牛嶋軍司令官


良逢は沖縄戦の司令官一家と縁が深い。
陸軍予科士官学校時代は牛嶋少将(当時)が校長、長男の茂とは同期(陸士55期)である。また、義父の崎山嗣朝*1那覇市長だった昭和18〜19年頃、牛嶋・長両氏と同席した時のことをよく覚えていた。

「牛嶋サア。オマンサー、ナイゴテ、アゲナ気ノ利カン副官ヲバ、使イナハッチョル?」(牛嶋さん、貴方はどうして、あんな気の利かない副官を使っていなさるか?)
 義父は、沖縄出身だが、鹿児島の七高造士館を出ているので、鹿児島弁も多少話せる。
 次級副官のS大尉*2は、誰が見ても、副官らしくない、気の利かない男だったらしい。
「ウンニヤ、崎山サア、S大尉ナ、気ワ利カンドン、アッデ、剣道五段ゴワス」
司令官のこの返事を聞いて、義父は、「ハハアー、近代戦においては、軍司令官といえども、混戦乱闘の中に、身をおくことが考えられる。そういう場合の身辺警護(ボディーガード)のために、気は利かないが腕っ節の強い副官を使っているんだな」と思ったという。
 沖縄戦最後の日、摩文仁厳頭において、敵弾で負傷した腕をものともせず、紫電一閃、牛嶋司令官、長参謀長の介錯を、立派に果たしたのは、この気の利かない次級副官のS大尉であった。このあたりも、西郷隆盛の最後によく似ている。

「牛嶋閣下は、あの頃から、すでにあの時のあるのを予期していたのだね」
 飲みかけの焼酎の盃を置いて、ポツリと義父は呟くように言った。

さらに良逢は、自刃直前の牛嶋と長の語らいを、「直接見とどけた只一人の生存者」大迫亘の著書から引いて、恐らく実話であろう、と結ぶ。
だが、牛嶋・長の自刃は前出の大田昌秀元知事に疑義が出されている。
一つには、死体写真からは、切腹介錯の形跡が見られないこと。*3そして、自決状況を映画脚本の如く纏めた司令部付憲兵大尉萩之内清は、その時、現場に居なかったことが明らかとなったためである。*4これを引用したピューリッツァー賞受賞のジョン・トーランドの内容は、自分も読んで誤解していた部分があったので、大田の報告は参考になった。山本七平の云う「脳髄焼付」を完全には否定しないが、さも映画でも見てきたかのように美しく描写し、上官を賛美する人間の証言に碌なものが無いというのは、自分の実感でもある。

話しは逸れるが、お孫さんの牛島貞満が5月11日夜、都内で宮森小米軍機墜落事故をテーマに講演されていた。*5撤退問題や集団死問題に関して非常に勇気ある発言をされているようだが、御祖父の自決模様すら十分には明らかになっていない現状で、中野出身者ばりの行動は到底容認出来るものではない。

*1:孫姓支流出。同門の崎山嗣幸を朝鮮人北朝鮮に繋がっていると醜聞を立てた街宣屋は実に姑息。

*2:坂口大尉

*3:『世界』no.792, 202

*4:『世界』no.792, 204-205

*5:http://www.okinawatimes.co.jp/news/2009-05-12-M_1-026-1_001.html