トービーラーと同じネタ!?


id:finalvent氏のブログで面白いネタを見つけた。

 そういう面もあるのだけど。
 上の世代がどこまでを指すのか曖昧だけど。
 一般的には、沖縄の戦中世代までは、皇民化教育が行き届いているので、きちんとした日本語が話せます(もちろん、外国語として習得しているので変な部分もあるけど)。なので、標準語(日本語)が通じる。
 米軍統治下時代では、ウチナーグチは微妙な位置に置かれ、1980年以降は、ごく普通にヤマトウチナーグチの世代になる。彼らはナイチャーと同じように、きちんとした日本語を話す割合が減る。
 あと、『方言』の敬語を正しく使う、というのは、王府の言葉を使うという意味合いがあり、身分差別的な言語装置でもあるのですよ。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090621/1245545860#c

>一般的には、沖縄の戦中世代までは、皇民化教育が行き届いているので、きちんとした日本語が話せます

きちんとした日本語がどのようなものを指すのか、今一分からないが…
僅かな経験を基に「一般」を語るならば、戦中世代できちんと話せた方は見たことが無い。
最も語彙豊富であったのは学徒隊だった恩師であるが、父方の祖母と同じく口重で、話せば直ぐ訛りが分かり、語法に違和感を覚えることも多かった。ただし、硬質な文章は戦中世代のそれで、初めて日本的知識人なるものに直面した気がした。若干下の世代である近隣の元校長先生は、恩師より訛りは少ないものの、文章には歴然とした差があった。
では、若干上の世代はどうか。
幼少時、祖父の居ない自分と良く遊んでくれた近所の御爺は、いかにも中流の風情であったが、きちんとした標準語には程遠かった記憶がある。
さらに上、明治生まれの父方の祖母は、タイムス紙上でもちょっとした修飾語の付く家の出だが、ウチナーグチしか使えないと言っても過言ではなかった。日本語よりもスペイン語の方が上手かったとすら言える。このため、自分も会話にはとても苦労した。
同世代の御婆たちが会した時、最も標準語を上手く喋れたのは、母方の祖母であったように思う。正に下層階級といえる出身だったが、出稼ぎ先である内地の紡績工場で喋りを覚えたらしい。それまでは、方言札溢れる小学校で培った幼稚な日本語であったようだ。祖母はよく方言札の話しをしていた。
山之口獏が失望するくらい流暢に話せるようになったのは、戦中生まれ〜団塊の親世代ぐらいからではなかろうか。
ただ、この中でも例外だったのが、御殿家などの上流階級である。
母は御殿家の友人が、非常に美しい日本語を話し、ウチナーグチを殆ど喋れなかったことを強烈に覚えている。*1きちんとした標準語を話せること自体が身分差を表していた。さらに内地での就職を経た後、標準語を上手く話せることが這い上がるための道と、母が思いを強めたのも無理はなかった。
自分は、ウチナーヤマトグチ世代にあって、家庭内ではウチナーヤマトグチを悉く矯正された。栄達させるためには、周りに感化されてはならない、というわけである。こういった脅迫観念が効いていた家庭は、同学年にもある水準で居たように思う。兄弟・従兄弟の世代とも比べたとき、日本語話者の母集団が大きくなるにつれ、きちんと話せる者の絶対数も増加していった。
戦中世代までのきちんとした日本語話者層とは、一体どれを指すのか。内地や東亜同文書院に進学した者か、旧制中学に行った者か。

> あと、『方言』の敬語を正しく使う、というのは、王府の言葉を使うという意味合いがあり、

宮里朝光氏ですらも、最早そんな時代錯誤なことは言わないし、首里クトゥバほど敬語の発達していない我々のシマクトゥバこそ焦点になっている。町方ならいざ知らず、シマ(字)の御婆にスイの敬語で話しかけたら苛立たせるだけだ。

*1:友人の父は、『ウンタマギルー』の西原親方をさらに謹厳実直、粗衣にした感じだったという。家庭教師まで付けたのは、良家に嫁がせるためという必要に迫られた感があったようだが、その後は語るに忍びない状態である。